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今月のWomanはトルン奏者 小栗 久美子さん

小栗 久美子さん
トルンの響きに重ねる思い
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小栗 久美子さん/トルン奏者

■お問い合わせ先
オージーミュージック
www.ogmusic.info
電話 045-593-1859


 ベトナムのタイグエン地方発祥の竹楽器「トルン」。この名を知る日本人はまだ少ない。ベトナムは中国やフランスの統治下に置かれた歴史的な背景から、東西の外来文化を巧みに融合し独自の文化を築いてきた。一方で、54の民族がいる多民族国家でもあり、土着の文化を伝承してきた少数民族の人々がいる。タイグエン地方にも多くの少数民族が居住し、独自の文化を持つ。トルンもその文化の一つだ。もとは田畑に動物を寄せ付けないように鳴らす道具から始まった。1970年代に首都ハノイの音楽家により大きく改良され、楽器として発展した。今やトルンはベトナムを代表する楽器の一つとして紹介されている。

トルンとの出合い

 東京外国語大学でベトナム語を専攻し、先生の研究室に置かれていたお土産品のミニチュアトルンを見たのが、トルンとの出合いである。中学生に上がるころからマリンバを習っていた私は、竹製マリンバのような形状にひかれた。その後、夏休みに同じクラスの友人たちとベトナム縦断旅行をした際、ホーチミンの街角でミニチュアをそのまま大きくしたトルンを見つけた。試奏させてもらうと、太めの竹が聴いたことのないような丸みのある響きを放ち、心が躍った。マリンバの基礎があり、すぐに弾けるような気がした私は、春休みにハノイでトルンを学んでみることに。「あなたが勉強したい楽器はこれですか」。グエン・トゥ・トゥイ先生のお宅に置かれていたトルンはとても大きく、複雑に竹が組まれ、生まれて初めて見る楽器だった。先生は日本人の私のために『荒城の月』を演奏してくれた。経験したことのない響きに全身鳥肌が立った。

母の病

 より本格的に学ぶため、トルンを研究テーマに据えて大学院へ進学。院生2年目にベトナム留学を計画。その春休み、研究協力者として教授に同行し10日間ベトナムに滞在。空き時間に現地でも留学準備を進めた。帰国し空港から父に電話をすると、「すぐに病院へ来い」と深刻な声。不在中に母が倒れ病院へ運ばれていたのだ。医師からは余命半年と告げられた。多発性骨髄腫という難病だった。

 留学は諦め、母に寄り添う日々を送った。家と病院を往復し、夏が過ぎ、秋が過ぎ、母は過酷な治療に耐え、医師が驚くほどの奇跡的な回復をみせた。そして翌年の春、諦めていたベトナム留学に笑顔で送り出してくれたのである。

ベトナム留学

2005年、タイグエン地方の少数民族の演奏
2005年、タイグエン地方の少数民族の演奏
2004年、ハノイ音楽院のマイ・ティ・ライ先生のレッスン
2004年、ハノイ音楽院のマイ・ティ・ライ先生のレッスン

 2004年4月、首都ハノイで生活を始め、ハノイ音楽院(当時)のマイ・ティ・ライ先生のもとでトルンを学ぶことになった。私を家族のように受け入れてくださったライ先生ご一家との出会いは、幸運だった。

 友人にも恵まれた。若くして起業した女性・チャンさんは、私を妹のようにかわいがってくれた。トルンの故郷タイグエン地方へ行ってみたいと話すと、偶然にも彼女の叔父がその地域に住んでいた。現地では少数民族の演奏を見てみたいという夢もかなえることができた。

 一度、彼女に真剣に尋ねてみたことがある。「なぜそんなに親切にしてくれるのか」すると彼女は「私たちの国の文化を学びに来てくれたことがうれしい」と答えた。そして「女の子が単身で渡ってくるなんて勇敢。だけど危険もある。できるだけ力になりたいと思った」と続けた。

 トルンの改良研究第一人者であるドー・ロック先生がホーチミンに住んでいたため、最後の3カ月間はホーチミンで過ごした。先生のもとでレッスンを受け、論文をまとめるのに充分なだけの資料を収集することができた。留学生が最も暇になる旧正月には、チャンさんが自身の故郷に連れて行ってくれた。トイレやお風呂が備わっていないような田舎の生活も体験できた。1年間の留学生活、密度の濃い貴重な時間を過ごした。

母の夢

2007年10月初リサイタル、トルンソロ(撮影:重本昌信)
2007年10月初リサイタル、トルンソロ(撮影:重本昌信)

 帰国した翌年、母の病が再発。母は下半身不随になり、やがて入退院を繰り返すようになった。状態は日を追うごとに厳しくなった。孫はおろか花嫁姿も見せられそうにない、そう思った私は、母の夢だった私の初リサイタルに踏み切る決意をした。マリンバの師匠・北原千鳥先生には以前から勧めていただいていたが、自信のなさから逃げていた。母の介護をしながら準備を進めた。ピアニストの中島慶子氏は自宅までリハーサルをしに来てくれた。母も病床から助言もくれ、とても楽しみにしてくれていた。

 しかし2007年の夏、母の容態は悪化し、本番1カ月前に息を引き取った。「お母さんはきっと時間をプレゼントしてくれたんだよ。あと1カ月、自分のことだけに専念してリサイタルを成功させなさい」。父の言葉だった。

 本番当日、会場の横浜みなとみらいホールは超満員。お客さまのほとんどは母が集めてくれたようなものだった。舞台裏にいた北原先生は1曲終わるごとに励ましてくれた。トルンもマリンバも私の演奏は未熟なものだっただろう。しかし全てのプログラムを終えると、鳴り止まない熱い拍手で会場は一体となっていた。「私がいなくても、これだけの人々が応援してくれているのだから大丈夫よ」と母に言われている気がした。母が命がけで送り出してくれた留学、トルンは母が命に代えて学ばせてくれた特別なものになった。これだけの人々を前に単なる趣味で終わらせてはならないと思った。それで食べていけるかどうかは分からない、でもこれを専門とし真剣に取り組んでいこうと心に決めた。

その後と現在

 数々の自主企画公演では多様なコラボを実現させた。楽曲制作も手がけ、オリジナリティーのある活動を目指してきた。また全国から依頼を受け、各地で演奏もしている。メディアに取り上げていただき、ベトナムの国家主席、首相などが来日された際の御前演奏など、公的な場にもお声がけいただいた。大学では非常勤講師としてトルンを教え、学生たちが立ち上げたトルンアンサンブルのサークルは日本初として注目を集めた。

 結婚と出産を経験し、現在は子育てをしながら活動を続けている。義父母や主人の理解と協力に感謝する日々だ。また、娘を想う母の気持ちが分かるようになり、さらに母を偲ぶようになった。トルンの響きに乗せて届けたい思いが、一つ、また一つと重なっていく。音楽は今後もずっと私の人生と共にあるだろう。


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