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368号 注目の人 歌手/山本 リンダさん

モデル歌手としてデビュー もうどうにもとまらない!
山本 リンダ/歌手
Profile

山本 リンダ/歌手
1951年生まれ。ファッションモデルを経て、66年『こまっちゃうナ』で歌手デビュー。100万枚を超える大ヒットとなる。72年『どうにもとまらない』で大人の歌手へと変身を遂げ大ヒット。その後も『狂わせたいの』『狙いうち』など次々と大ヒットし、第2次リンダブームに。91年には第3次リンダブームが巻き起こり、日本レコード大賞・特別賞など多くの賞を受賞。『NHK紅白歌合戦』にも5度目の出場を果たす。89年よりシャンソンの祭典「パリ祭」に毎年参加。テレビ、ラジオはもちろん、コンサート、舞台、CM出演など、エレガントかつエネルギッシュに活躍している。



ハーフに対する偏見。母の愛情に守られた

両親と3ショット

両親と3ショット

 私はハーフです。福岡県小倉市のダンスホールでダンサーとして働いていた母と米兵だった父が恋に落ち、私が生まれました。しかし、父は私が1歳になる前に、朝鮮戦争で戦死。当時は母と叔父と高齢の大家さん夫婦との暮らしでした。

 その後、横浜に移り住みましたが、まだハーフが珍しい時代だったので、近所の子どもたちに「やーい、合いの子!」といじめられたこともあります。そんなとき、母は私をひざにのせ、「あつ子(私の本名)、人をいじめる子は心が狭い人なのよ。これからはね、世界中の人が仲良くしなくちゃいけないのよ。人をいじめるなんて時代遅れ」。そして、『みにくいアヒルの子』の話をしてくれました。「みにくいアヒルの子は、最後は白鳥になるの。あつ子は白鳥なのよ。だから、自信を持って育ってほしいの」。その言葉に勇気をもらい、自分を卑下することなく過ごすことができました。

 それに、私を守ってくれる友達もいたので寂しくはありませんでした。学校から帰ると、仲のいい友達と「今まで行ったことのないところに冒険しよう!」と一緒に自転車を走らせたものです。

12歳で少女モデルに。「日本のツイッギー」と呼ばれるまで

1967年英国モデル「ツイッギー」と大阪東レファッションショーにて

1967年英国モデル「ツイッギー」と大阪東レファッションショーにて

 物心ついた頃から歌が大好きで、朝から晩まで歌っているような子どもでした。母の帰りが遅いときは星や月とお話ししながら歌い、「将来、歌手になれますように」と願い事をしたのを覚えています。

 ところが、あるとき近所の人に「あっこちゃんは、大きくなったらモデルさんになるといいわね」と言われ、「モデルって何だろう?」と興味がわいたのです。早速、本屋さんに行き、ファッション雑誌を開くと、きれいな服を着て、ポーズを決めたすてきなモデルさんがたくさん出ていて、「私もモデルさんになりたい!」という別の夢が生まれました。

 小学校3年生ぐらいからそんな想いを心の中で温めていたら、6年生のとき、近所の方が雑誌『装苑』の切り抜きを持ってきてくれました。少女モデルの募集記事です。「お母さん、私、受けてみたい!」と応募して、夢が現実に!!12歳から1年間の契約でファッションモデルの仲間入りを果たしました。

 楽しい1年間はすぐに終わり、契約は終了。でも、そのあとも「もっとモデルのお仕事をしたい。職業として続けたい」という思いが募りました。そして、勇気を出して、自分から出版社に売り込みの電話をすることにしたのです。『ドレスメーキング』『服装』『主婦と生活』『女学生の友』『美しい十代』…片っ端から電話をかけて、そのうちの何社かのお仕事をいただけるように。中学3年生のとき、カメラマンさんが有名なモデルクラブを紹介してくださり、所属することができました。

 するとすぐにNHKの『夢のセレナーデ』という音楽番組の日本初のカバーガールに抜擢していただいたのです。それ以外にもさまざまな仕事をいただくようになり、忙しくなりすぎて、なかなか高校にも行けなくなりました。当時は珍しい、フランス、イタリア、オーストリア、アフリカなど、海外での撮影にも行かせていただきました。世界中でブームを巻き起こした英国モデル「ツイッギー」が来日した際にはファッションショーで共演し、「ジャパニーズ・ツイッギー」と呼ばれることもありました。

歌手かモデルか、運命の分かれ道

 モデルの仕事が忙しくなりかけたとき、実は、歌のコンテストを受けていました。1次は合格しましたが、2次で落選。でも、主催をしていたプロダクションから「レッスンに通いなさい」と声をかけていただき通っていたのです。ところがモデルの仕事が軌道に乗り、「このままモデルをやっていたほうがいい」と思い始め、レッスンからは徐々に足が遠のいていきました。

 そんなとき、プロダクションから呼び出され、「きみは歌手になりたかったんじゃないのか? そんなに簡単に夢をあきらめられる人間なのか?」と言われて、心に刺さりました。「そうだ、私はあんなに歌が好きだったのに、歌手になりたいという夢を今、貫かなければ、人生に悔いが残る」と思ったのです。

 それからまたレッスンに通い始めて少しした頃、プロダクションの社長から「歌手デビューさせたいから、モデルクラブと話をつけていらっしゃい」と言われました。母とモデルクラブの社長に会いにいき、事情を説明。社長は「わかりました。でも、半年だけはモデルの仕事はうちの事務所で、その後はモデルの仕事もプロダクションにお任せしましょう」と言ってくださいました。そして、遠藤実先生が曲を書いてくださり、15歳のとき『こまっちゃうナ』でデビューすることが決まったのです。

芸能界の厳しい現実。「生まれ変われる歌がほしい!」

 私のデビューの頃をご存じの方もいらっしゃるかと思います。「歌うファッションモデル」と言われ、『こまっちゃうナ』がいきなり大ヒットして、翌年『NHK紅白歌合戦』にも出場させていただきました。

 しかし、その後ヒットに恵まれず、満ちていた潮がサーッと引くように、コンサート会場の客席にも空きが出てきました。そうすると、大きな劇場には出られなくなり、小さい会場のライブに。芸能界はジェットコースターのように浮き沈みの激しい世界だとわかっていたつもりでしたが、思っていた以上に厳しい世界だと思い知りました。

 その頃、越路吹雪さんや岸洋子さんなど、大先輩の舞台を見に行くようになり、歌の心をお客さまに届けようとすべてのエネルギーを放出し、幕が下りると崩れ落ちてしまうくらい真剣な姿を見て、「私も長く歌える歌手になりたい、お客さまに勇気や希望を届けられる歌手になりたい」と願うようになったのです。そのためには、『こまっちゃうナ』から脱皮しなくてはいけません。「イメージ・チェンジをしたい!! 新しい私に生まれ変われる歌がほしい」と、心底願っていました。

鬼の特訓で歌唱が激変。6年ぶりの大ヒットに

1991年『NHK紅白歌合戦』

1991年『NHK紅白歌合戦』

1973年『どうにもとまらない』のステージ

1973年『どうにもとまらない』のステージ

 『こまっちゃうナ』のイメージを完全に打ち破る曲にめぐり会えたのはそれから6年後でした。その間、いろんな歌でチャレンジし、発声法を変えたり、衣装の雰囲気を変えたり、お化粧を変えたりしましたがヒットにつながりませんでした。

 阿久悠先生、都倉俊一先生のコンビによる『どうにもとまらない』をいただいたときは、「なんてカッコいい曲なんだろう! これでヒットしなかったら、私は歌手としてもうダメだ!!」と本気で思いました。まさに願っていた通りの詞と曲でした。しかも新鮮で、今まで日本になかったような曲調です。心が躍りました。

 都倉先生のレッスンは半端ではありませんでした。「絶対笑うな、にらみつけて歌え!」「よくこれで歌手なんかやっていたな。もっと腹から声が出ないのか!」「口は横に開くんじゃない、縦だ!」「目の前の壁に声をぶつけてみろ!」…しかし、新しい「山本リンダ」に生まれ変わるために、厳しいレッスンは望むところでした。

 レコーディングが終わって、振り付けも決まり、次は衣装。“へそ出し”は私のアイデアです。10代の頃大好きだった外国映画に想を得て、白いシャツの裾を無造作におへその上で結び、ローライズのベルボトムジーンズをはくイメージでした。それが情熱の色である赤と黒に替わり、パンタロンに大胆なスリットを入れたあの衣装が誕生したのです。歌と踊りと衣装が一体化した、エンターテインメントの完成です。

 一連のヒット曲の中でも、『狙いうち』はその後も世代を超えて歌い継がれ、平成になっても今どきの歌として新鮮に受け止めていただき、第3次リンダブームが巻き起こり、『NHK紅白歌合戦』にも17年ぶりに出場させていただきました。今でもイントロを聴くだけで、体中からエネルギーがわいてきます。今でも元気な秘訣は、自分にいただいた曲のおかげでもあると思います。

50歳で結婚。人生の幸せは今も続く

山本 リンダさん
2005年ごろ夫と中国洛陽にて

2005年ごろ夫と中国洛陽にて

 実はシャンソンも歌っているんですよ。日本最大級のシャンソンの祭典『パリ祭』には毎年出演、もう30年目になります。シャンソンにはドラマがあり、人生を歌うものが多く、10代の頃から大好き。この先、70代、80代になっても歌い続けられたらと思っています。

 プライベートでは、50歳で結婚しました。主人は福祉を専攻している大学教授で、私より7歳年上です。私は人に気を遣うタイプで、結婚当初は、自分が妻として夫の世話をしなければと、仕事で帰りが遅くても朝早く起きて台所に立っていたのですが、「まだ寝ていていいのに。自分のことは自分でやるよ」と。一通り家事ができることもあり、助かっています。お互いを理解して、自分ができることはやる。大人婚のいい面ですね(笑)。

 二人とも温泉や自然が好きなので、私が地方で仕事に行き、近くに温泉場があれば、あとから主人が合流することも。月のきれいな夜には自転車を走らせ、一緒に月を眺めることもあります。そこで月に願うのは、「健康で、歌を長く続けられますように」。これからも背筋を伸ばして、踊りながら精一杯歌っていきます。
(東京都内にて取材)


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