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375号 注目の人 元バレーボール女子日本代表/竹下 佳江さん

五輪に3度出場、Vリーグ監督、球団副社長 チームでコロナに立ち向かう
竹下 佳江/元バレーボール女子日本代表
Profile

竹下 佳江/元バレーボール女子日本代表
1978年、福岡県生まれ。高校卒業後実業団入り、翌年に日本代表デビュー。「世界最小・最強セッター」として知られ、日本の司令塔として活躍。シドニー五輪出場を逃し一度は引退したが請われて復帰後、日本代表で主将も務め、五輪3大会出場。2012年のロンドンでは銅メダル獲得に貢献し翌年引退。JOC オリンピック特別賞、福岡県県民スポーツ栄誉賞ほか受賞多数。夫は元プロ野球選手の江草仁貴氏。



姉の影響で始めたバレーボール

1歳くらいの頃。当時住んでいた家の近くの公園にて

1歳くらいの頃。当時住んでいた家の近くの公園にて

 両親と姉の4人家族で育ちました。子どものころは外で友達と遊ぶことが多かったですね。父は野球、母はソフトボールをやっていて、小学校のときは子ども会のソフトボールに駆り出されていました。それはそれで楽しかったのですが、チームに入ろうとまでは思いませんでした。

 バレーボールを始めたのは小学3年生のとき。3つ上の姉が小学校のスポーツクラブでバレーボールを始めたので、よく、その練習について行っていました。

 そのクラブは4年生からのスタートなのですが、私はそれより少し早く、3年生で入部させてもらいました。最初は、友達とワン・ツー・スリーと、ボールをつなぐことが純粋に楽しかったですね。そして、できないことができるようになる喜び、バレーボールの楽しさに夢中になりました。

 指導者は地域の大人で活動は通年。ママさんバレー経験者の方もいらっしゃったと思います。学校対抗の試合があり、地域では強いほうでした。

 上級生になって勝負心が芽生えてくると純粋に楽しいだけでなく「相手に勝つにはどうすればいいか」を考えるようになり、少しずつ変わっていきました。

 両親のしつけで覚えているのは、門限や約束の時間は守りなさい、お金の貸し借りはやめなさい、目上の人に対する言葉遣いや態度には気をつけなさい、ということくらいでしょうか。特に厳しいほうではなく、ごく普通に育ったと思います。

真面目な「キャプテン体質」

中学生。「もっとバレーを極めたい」という思いが芽ばえ始めたころ

中学生。「もっとバレーを極めたい」という思いが芽ばえ始めたころ

 中学校・高校でもバレーボールを続けました。中学校では県大会で優勝したり全国大会に行ったり、けっこういい成績だったのです。ところが中学3年生のとき、初めて県大会の決勝で負けたことがありました。その試合は、めちゃくちゃ悔しかったですね。

 そのときに「勝つためにどんな練習をすべきか」を皆で妥協なく話し合いました。悔しさをバネに頑張ったことが功を奏し、県大会では準優勝だったチームで、その後の九州大会を突破、全国大会に進むことができました。この経験で「悔しさを超えることが自分を成長させ、精神的に強くしてくれる」ということを学びました。

 中学卒業後は地元を離れて強豪校(不知火(しらぬい)女子高等学校。現・誠修(せいしゅう)高等学校)へ進学しました。

 私が長くバレーボールを続けるために皆と何か違うことがあったとしたら、「もっと上のレベルでやりたい」「自分の技術を高めたい、バレーボールを極めたい」という意志が強かったことでしょうか。単にあきらめが悪かっただけかもしれませんが(笑)。

 中学校、高校、社会人とずっとキャプテンをやってきました。自分から手を挙げたことは一度もないのですが、そういう体質なのかもしれませんね。悔しいときもそれを冷静にとらえ、「チームが良くなるためにはどうしたらいいのか」を、ずっと考えてきたように思います。

五輪予選敗退の経験があって今がある

現役時代(2011年8月FIVBワールドグランプリ2011)。身長159㎝で世界と戦いぬいた

現役時代(2011年8月FIVBワールドグランプリ2011)。身長159㎝で世界と戦いぬいた

 高校卒業後はVリーグ「NECレッドロケッツ」に入団、間もなく日本代表へ招集されました。

 日本代表時代の印象深い出来事といえば、やはり2000年のシドニー五輪出場を逃したことですね。日本女子バレーボール史上、五輪出場を逃したのはあのときだけですから。自分たちとしては「やることはやった」と思っていても、技術力が足りなかったと認めざるを得ませんでした。その後は、「どういう頑張り方をしたら次のオリンピックの舞台に立てるのか」に集中し、バレーボールに対する取り組み方も変わりました。もしかすると、通らなくてもよかった道なのかもしれませんが、振り返ってみれば、あの経験があったから今の自分があるのかなと思います。

 東京大会が1年延期になったことについては、率直に「中止でなくて良かった」と感じています。日本だけでなく世界中のアスリートにとって、とても難しい調整期間になると思いますが、中田久美監督や選手の皆さんには前向きに頑張ってもらえたら、と思います。

指導者への転身

 五輪3度目の出場となった2012年のロンドンを最後に、翌年現役を引退しました。その後しばらくはバレーボールの普及活動や試合の解説などをさせていただきながら、わりとゆったりとした生活を送っていました。

 そんな中、2016年に女子バレーボール界初のプロチーム「ヴィクトリーナ姫路」が創設されました。オーナーはロンドン五輪当時の監督、眞鍋政義氏。ともに戦い、女子チームを28年ぶりの銅メダルに導いた恩師です。その眞鍋さんからいきなり新チームの監督就任のオファーがあったのです。

 当時、長男はまだ1歳。正直、「いったいこの人は何を考えているんだろう?」と思いました(笑)。 

 姫路は眞鍋さんの出身地でもあり、ジュニアからママさんまでバレーボールが盛んでバレーボールに対して熱い土地。初めはかたくなに断り続けていたのですが、熱心な誘いをどうしても断り切れなかったのです(笑)。

子育てと監督業の両立

ヴィクトリーナ姫路の監督時代

ヴィクトリーナ姫路の監督時代

 キャプテン体験は長い私でしたが、監督というのは未知の世界でした。けれど、それはそれで、とても勉強になりました。子育てと監督業、2足のわらじを履くことになりましたが、チームの全面的なサポート体制のおかげで第2子の妊娠9カ月までコートサイドに立って指揮をとることができました。

 今後は出産後もプレーを続けたいという選手も増えてくると思いますので、チーム運営に携わるうえでも貴重な経験になりました。

 4年前、わずか選手3人でスタートしたチームが、現在は18人にまでなりました。「数は力」といいますが、本当にチームらしくなってきたなと思います。

 選手たちが試合で頑張っているのはもちろんですが、運営や営業が頑張ってくれたおかげで、まだ何もない段階から、たくさんの地元企業がチームのスポンサーになってくれました。

 いろいろなところで力になってくれた皆さまには、感謝しかありません。本当にありがたいことです。

指導者から球団副社長へ

 今年4月からは、球団副社長としてチームを支えることになりました。その直後に起きた今回のコロナ禍。他のスポーツ同様、Vリーグもすべての日程がストップしました。

 昨年は本当に苦しいシーズンでしたし、厳しい入れ替え戦を勝ち抜いて、若い選手たちはひと回りたくましくなってくれました。今年、どんな活躍を見せてくれるかと期待していただけに、ショックも大きかったです。

今、私たちにできることを考えて

 でも、そんなことばかり言ってはいられません。「コロナに負けるな!がんばろう姫路」を合言葉にさまざまな情報発信に取り組んでいます。

 新しいオフィシャル・ファンクラブ「ヴィクトリーナ ファミリー」の創設、動画ニュースや選手応援コミュニティなど、「コートに立てない私たちが今、ファンやチームを支えてくださる皆さんのためにできることは何か?」をチーム広報やスタッフ、選手たちと一緒に考え、行動しています。

 今年は監督でなくなったことで立場や役割が変わり、現場との距離はありますが、これまで同様にチームをバックアップできるよう活動していきたいと思います。

親としても成長していきたい

竹下 佳江さん

 私生活では5歳と2歳、2人兄弟の子育て真っ最中。長男は、同年代の中でも飛び抜けて体が大きくて体を動かすことが大好きな子です。親が言うのもなんですけど、スポーツに関してはちょっと楽しみ(笑)。次男は、音楽に合わせて体を動かしたり歌ったりするのが大好きです。同じ男の子でもタイプが違いますね。

 今回の自粛暮らしではみんな家にいるので、食事の支度は大変でした。でも、それだけ家族4人でたくさんの時間を共有することができました。息子たちの日々の成長を間近で見ていると、自分も親として成長できるように頑張らなくてはと、改めて感じました。

 外出の機会が減って運動量もかなり減ってしまいましたが、できるだけストレスがたまらないようにお弁当を作ってベランダで食べたりするなど、工夫をしながらの生活でした。

 緊急事態宣言は解除されましたが、読者の皆さんもまだ先の見えない不安を抱えながら日々を過ごされていると思います。ここからまた、ひとりひとりの行動が大切になってくると思います。笑顔あふれる未来のために、ともに頑張っていきましょう。
(兵庫県姫路市内にて取材)


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