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365号 注目の人 タレント・キルト作家/キャシー中島さん

テレビで見た勝野洋にひとめぼれ お店で張り込み、電撃結婚!
キャシー中島/タレント・キルト作家
Profile

キャシー中島/タレント・キルト作家
1952年、ハワイ、マウイ島生まれ、横浜育ち。タレントとして活躍する一方で、キルト作家として創作や指導にあたっている。ハワイアンキルト、アメリカンキルトを中心に色彩豊かな作品を制作。静岡県御殿場市のキルトミュージアムをはじめ、全国に6つのキルトスタジオを運営している。その芸術的才能は、日本国内はもとより、パッチワークキルトの本場アメリカでのキルトコンテストにて数々の受賞歴があり、高く評価されている。



母1人、子1人、1人の時間が長かった

7歳の時 母と

7歳の時 母と

 「キャシーさんは小さい頃から明るかったのでしょうね」とよく言われますが、まったくそうではありません。

 私が5歳のとき両親が離婚し、アメリカ人の父は米国に帰国。生活のため母が働くことになり、私は血のつながりのない1人暮らしのおばあさんのお宅に預けられていました。親子で一緒にいられるのは母の仕事が休みの日だけ。母は当時、中華街で働いていて、皿洗いから始まり、セカンドシェフになって、そのあと女性では珍しいバーテンダーに。私が小学校4年の頃、自分のバーを開いて、初めて一緒に住めるようになりました。

 それまでは一人の時間が長かったですね。近所のシャツ工房で端切れをもらったり、洗濯屋さんにその端切れをアイロンがけしてもらったりして、よく布遊びをしていました。大人たちから「やっちゃん(本名・八千代)、今日はきれいな布があるよ」「あめ玉を持ってお帰り」と声をかけられると、ニコニコして「ありがとう!」。どうしたらみんながかわいがってくれるか、預けられている身としては、それが自然と身についた生きる知恵だったのかもしれません。

今までの我慢が爆発!親への反発から不良に

 ところが、10歳で母と一緒に暮らすようになると、今まで我慢していたものが爆発して、今度は反抗に走ったのです。「やっとお母さんと2人で暮らせる」と思ったら、父親の違う弟ができて、みんな弟のほうを向いている。そこから小さな反抗が始まりました。学校にこそ通っていましたが、心の中にふつふつとしたものを抱えながら中学に入り、15歳のとき、同じような寂しさを持っていた仲間たちと横浜・本牧にある『ゴールデンカップ』というライブハウス(ダンスホール)で夜遊びするようになったのです。

 当時はミニスカートに白のブーツをはき、音楽や踊りが好きだと「不良」と呼ばれた時代です。私たちは『クレオパトラ党』という女子グループを結成。そのときのメンバーは本当にきれいな人ばかりで、名前は出せませんが、その後はほとんどの方が有名なモデルさんになりました。

スカウトでモデルに。歌手デビューも

モデル時代

モデル時代

 16歳になってすぐ、私も有名なスタイリストさんから「モデルになる気はある?」と誘われました。「なってもいいけど、いくらもらえるんですか?」と聞くと、「あなたなら月3万円くらいかな」と。3万円といえば、当時(1968年)の大卒の初任給に匹敵します。「でも今のスタイルじゃダメね。あと10キロ痩せなきゃ」と言われ、2カ月で12、13キロ落としました。

 同じ頃、「歌を歌わない?」と別の方からスカウトされ、翌年、カサノヴァ7というグループの一員として『夜の柳ヶ瀬』でデビューしました。モデルの仕事と並行して赤坂の『ゴールデン・ゲート』というお店に出演していた時期もあります。そこで越路吹雪さんのショーを間近に見ることもできて、毎日が楽しかったですね。

 でも、私はそれほど歌がうまくなくて(笑)、「やはりモデルを中心にやろう」と自分で方向性を決め、『マドモアゼル』という女性ばかりのモデル事務所に入りました。そこで始めたのがセルフプロデュースです。

 入ってすぐは仕事がないので、学校帰りに事務所に寄り、電話番をしていました。電話が鳴って、「炭酸飲料水のCMの後ろで楽しそうにしている女の子がほしいんだけど、誰かいるかな?」と言われると、「はい、新人のキャシー中島というハーフのモデルがいますが、どうでしょうか?」と売り込み、自分でスケジュールを埋めたのです。

 それを何度もやるうちに「この子、よく見るよね?」と言われるようになり、いつの間にか本当の売れっ子モデルに。ついにメインの仕事も来ました。自動車メーカーのポスターのオファーです。ところが撮影当日、高校生だった私の顔はニキビだらけ。「これじゃアップは無理」と言われ、2〜3日もらって肌を整え、もう一度スタジオ入りした苦い思い出があります。

モデルからタレントへ 道を切り開くのは自分

 自分でモデルの道を切り開き、19歳のときには月収100万円ぐらいあったでしょうか。母の昔の苦労を見ていたので、お金はすべて母に預け、私は毎日2000円だけもらっていました。

 20歳になると、今度はタレントに転身。すぐに『ぎんざNOW!』という番組の初代アシスタント役が決まりました。ところが、たった3カ月で降板。某シャンプーのCM出演が決まり、1年間、世界中で撮影することになったからです。CMモデルなら絶対にやりたい仕事で、自分で直接、番組プロデューサーに説明。時代もよかったのか、その方も快く許してくださいました。

 しかし1年後、CM撮影が終了し、やりたいことをやり切った私は「またタレントやりたいな」と再び同じプロデューサーのところへ。さすがに「そこまでこの世界は甘くない」と言われましたが、結局、夜の番組のアシスタントをやらせていただくことになりました。

 普通はタレント本人が直談判などしないでしょう。けれども、ぶつかってみなければ分かりません。私は何でも自分から一歩踏み出すタイプ。要は前向きなのです。ですから、自分がやったことは棚に上げて、次にやりたいことに向かって動くほうが気持ち的には楽でした。育った環境から、何でも自分から言わなければ、他人が何かしてくれるわけではないと、肌で分かっていたのですね。

 結局、27歳で結婚し、引退するまでタレント業を続けました。

結婚も押しの一手!店で待ち伏せ

1979年、結婚式

1979年、結婚式

 結婚もそうです。実は19歳のときに一度短い結婚をしています。次は長く一緒にいられる人と…と思っていた矢先、偶然テレビに映っていた勝野洋さんを見て、「こういう真面目な人と結婚したい!」と思ったのです。

 一度心に決めたら、人の迷惑を考えずに行動するのが私です。勝野さん行きつけのお店があると知り、毎晩張っていたら、彼が来て一緒にお酒を飲むようになり、2カ月後、「うちにかわいい猫がいるから、来ない?」と誘って、その日から一緒に暮らすようになりました。

 12月4日に付き合い始め、1月11日に婚約発表、2月25日に入籍というスピード婚でした。イメージがまったく違う2人だったから、週刊誌に「すぐに別れる」と書かれましたが、本当にそうなったら書いた人を喜ばせるだけ。最初は「意地でも別れるものか」と思っていましたね(笑)。

次女出産後、御殿場へ。子育ての傍らキルト作家に

キルト教室

キルト教室

 長女を出産してしばらくすると、前に出ていた番組から「キャシー、そろそろ帰ってこない?」と声がかかり、胸がざわつきました。どこかで復帰を望んでいる自分がいたのです。でも、私は片親で育ったから、本気で家庭を大事にしたかった。それで、余計な情報が耳に入らないよう、次女を出産してから静岡県・御殿場で田舎暮らしを始めました。

 自然の多い場所で、ちょっとくらい嫌なことがあっても外に出ると空気はきれいだし、景色はいいし、風の音を聴いていると「まあ、いいか」と。そういう環境が、結果的に子育てにもいいほうに働いたと思います。

 タレント時代からパッチワークキルトは縫っていましたが、その頃から長女の幼稚園のお母さんたちにキルトを教えるようになりました。最初は15〜16人で幼稚園の教会横の小さな部屋からスタートし、すぐに40人、50人と生徒さんが増えて、御殿場の駅のそばに『スタジオK』という最初の教室を出すことになりました。現在は全国に6つのスタジオを経営。キルトの関連書籍は70冊を超えています。

 教室を始めて3年目、家族でハワイ旅行をしたとき出合ったのがハワイアンキルトです。シンプルで色鮮やかなキルトに一瞬で心を奪われ、独学で学び、生徒さんたちにも広めていきました。

長女の死を乗り越え、家族の絆はさらに強く

家族旅行。夫の勝野洋さんと子どもたちと

家族旅行。夫の勝野洋さんと子どもたちと

キャシー中島さん

 ベッドカバーサイズのキルト作品を1人でつくろうとしたら1年〜1年半かかります。その間にはうれしいこともつらいこともあり、いつもの針目と違う生徒さんがいると「何かあったの?」と聞くぐらい、縫い方には精神状態があらわれます。

 私自身、長女の七奈美が29歳の若さで亡くなったときは、針も持てない時期がありました。肺の小細胞がんでした。私は毎日泣いていました。でも、そろそろ前に向かって歩いていかなくてはいけないと気づき、家族とキルトの力を借りて、彼女が大好きだったオレンジ色を使ったキルトをつくり始めたのです。

 それまでも結束の固い家族でしたが、七奈美が亡くなったことによって、さらに絆は強くなりましたね。今は次女・雅奈恵夫婦に子どもが2人生まれ、3世代同居に。孫育てにも追われています。初孫の八瑠子は七奈美によく似ていて、かわいいのに根性がありそうです。

 今も全国を駆け回り、スケジュールはいっぱい。でも、この忙しさは72歳までと決めています。それから3年ぐらいかけて後継者である息子・洋輔に会社を引き継ぎ、あとは個人のキルトサロンを開いて、本当にキルトが好きな人たちとチクチクする時間にしていくつもりです。キルトとは一生関わっていきたいですね。
(都内にて取材)


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