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本音のエッセイ

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346号 マンガ・コラムニスト 夏目 房之介さん

「本音は矛盾するのです」

マンガ・コラムニスト 夏目 房之介さん

マンガ・コラムニスト 夏目 房之介

夏目 房之介/マンガ・コラムニスト

1950年東京生まれ。青山学院大学卒。出版社勤務後、マンガ、エッセイ、マンガ評論などを手がける。著書「マンガはなぜ面白いのか」「マンガの深読み、大人読み」「漱石の孫」など多数。NHK衛星「BSマンガ夜話」レギュラー。99年、手塚治虫文化賞特別賞。2008年より学習院大学教授。

 私は大学院の先生です。学生に論文を書かせるのが仕事です。むろん10年前ににわか教授になった私には、学術的な教養も経験もありません。が、マンガ批評の世界ではそれなりの経験があり、若手研究者との議論やアドバイスは、研究会などの場でそれ以前からやってきました。やることはあまり変わりません。

 でも立場が違います。教授の言葉は、同じ内容でも学生にとってものすごく強く作用します。立場上いや応なく私は権威、権力としてふるまい、それを使って論文を書かせます。大学とは権力の場なのです。そのことを身に染みて感じたのは先生になって数年後でした。

 ところで、対象を好きなだけでは論文は書けません。が、「好き」自体は大事で、それを見失うとやる気を失います。なので、できるかぎり自分の一番好きなものを論文にするよう指導します。本当は少しはずした変化球で至近に投げるほうが距離がとれて書きやすいのですが、それには経験と技術がいるし、玉砕覚悟で「好き」な対象に向かえ、と学生に言い続けました。

 しかし、学生によっては「本当に好きなこと」を考えているうちに何が「好き」かわからなくなってドツボにはまる人もいます。

 A君もそうでした。マジメな性格が災いして自分を追い詰めたあげくついに連絡なく退学しました。他にも似たことはあり、指導のしかたに悩みました。よく「好きなように書き(描き)なさい」と作文や絵を描かせる先生がいますが、あれは誤りです。何を書いていいのか分からない子にそんなことをいっても無意味です。それと同じことを私はやったのかもしれない。

 ある日、知らない人からA君をおぼえているか、彼が結婚するので披露宴で流すビデオに出演してくれないか、と連絡がありました。A君は友人に私のことを尊敬を込めて語ってくれていたというのです。これには本当に救われました。彼が立ち直ってくれていたこともうれしかったのです。

 教授と学生が平等だというのは、じつのところ嘘だし建前です。私の指導も、だから「本音」ではありません。というか立場や文脈によって変わります。私はじつは「本音」自体をあまり信じていません。ただ自分が偉そうにふるまっていると感じると昔からひどい自己嫌悪に陥ります。だから仕事にやりがいはあるが、早くやめたいとこぼしています。一方でA君のようなことがあると、やっていてよかったと思います。両方とも本音です。「本音」は矛盾するのです。

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