歌手・画家 八代 亜紀さん


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八代 亜紀/歌手・画家

1950年、熊本県八代市生まれ。1971年、歌手デビュー。73年「なみだ恋」が120万枚の大ヒット。「愛の終着駅」「舟唄」などのヒットで“演歌の女王”に。80年、「雨の慕情」でレコード大賞を受賞。「トラック野郎 度胸一番星」など映画やドラマにも出演。最近は、画家としても活躍し、98年フランスの美術展「ル・サロン」に初入選。以後5年間連続入選し、永久会員となる。94年ペルーにヤシロアキ工業技術学校を設立するなど、ボランティア活動も積極的に行っている。07年12月「舟唄ビューティー」(アスコム)出版。08年2月20日新曲「役者」発売。


ダイエットも楽しく〜28年前の体型に


 昨年、「舟唄ビューティー」という美容本を出しました。『舟唄』がヒットしたころの28年前の体型に戻しましょうと、出版社の人から話を持ちかけられて。最初は無理だと思っていたけど、食事の量を少し減らして、あとはリンパマッサージ。そうしたら、なんとウエストが9センチも細くなったんですよ。年齢を重ねた分、蓄積されたものを流すことが大事なんですって。ダイエットも楽しみながら続けるのがコツ。おかげで、気持ちもぐっと若返りましたね。

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小学校2年生のとき。校庭にて
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15才のとき。父と八代市の実家玄関前にて

大好きな歌と絵にワクワクしていた子ども時代

 私の故郷は、芸名の由来にもなった熊本県の八代(やつしろ)平野。日本三大急流の1つ、球磨川が注ぎ、裏の山からは天草の島々が見渡せる、きれいなところです。
 歌好きの父の影響で、いつも美空ひばりさんの歌を口ずさんでいるような子どもでした。でも、人前で歌うのは大の苦手。娯楽も何もない時代で、近所の人たちが座布団持参で私の歌を聞きに家に集まってくるんだけど、それが嫌で逃げ回っていたんです。今とは正反対でしょ(笑)。
 戦争を体験し、苦労してきた父は、とても愛情深い人でした。知らない人でも「入んなっせ」と家に入れて食事を出してあげたり、そのまま1ヶ月も泊まっている人もいたぐらい。
 そんな父の夢は、画家になることでした。でも、戦時中だから高校を出てすぐに海軍に入れられてその夢は叶えられなかった。その後、結婚して運送会社を興し、昼も夜も働いて。それでも、3度のご飯より絵を描くことが好きでした。ご飯時になっても絵を描くのに熱中してしまい、いつも母をイライラさせてましたけど。
 休日になると、父は私を連れて写生に行くんです。自転車に画材道具とギターを積んで。料理上手だった母が作ってくれたお弁当を、ピクニックみたいに川原で食べて、食べ終わると、ギターを弾きながら歌ってくれました。その光景は父が亡くなった今もふっと心に浮かんでくる。今、私が歌も絵も大好きなのは、そういう父のDNAを受け継いでいるんでしょうね。
 物質的には豊かではない時代だったけど、いつも何かにワクワクしてた。月に1回、銭湯に行っていたんですが、「明日お風呂だ」と思うだけで、ワクワクしたものです。だから、いまだにコンサートや絵を描くときも、毎日がワクワク状態(笑)。「三つ子の魂百まで」って言うけど、親が子どもにワクワク感を与えてあげることが大事なんだなと思います。
 私は中学校のときも美術と音楽、数学の時間が待ち遠しくてワクワクしてました。連立方程式を解くのが楽しくて。その反対に、歴史は苦手。悲惨な場面が出てくると、想像するだけで泣いちゃうんです。人一倍、感受性が強かったのかもしれませんね。

クラブシンガーを目指して父との葛藤の日々

 歌手を目指すきっかけを作ってくれたのも父でした。小学校高学年のときに、ジュリー・ロンドンというジャズ歌手のLPレコードを父が買ってきて、「聴いてごらん。よかよ」って。ロングドレスでマイクを持って歌っているジャケット写真を見てビックリ!それは幼いころ、私が描いていた絵とそっくりだったんです。今思えば無意識に「将来の八代亜紀」を描いていたのかもしれませんね。
 さらに彼女のプロフィールに「一流の歌手はクラブで歌う」と書いてあるのを見て、「クラブシンガーになろう」と。とんだクラブ違いだったわけですけど(笑)。
 その当時は、父も会社の経営が大変で、その苦労を見ているのが子ども心にも辛かったのね。だから、生意気にも私がクラブシンガーになって、少しでも親に楽をさせてあげたい、そう思ったんです。だけど、父にはとても言えなかった。
 父は私を画家にしたかったし、私自身も同じ夢を抱き続けていたんです。でも、高校進学を前にした三者面談で「進学はしない」と父に告げると、1週間ものすごく責められました。まさかクラブシンガーになりたいとも言えず、考えた末に決めたのは、バスガイドになること。
平成19年9月28日、コンサートの模様
 バスガイドなら社会的にもしっかりした仕事だからと、やっと父も許してくれました。でも、名所旧跡の分厚い台本を全部暗記しなくちゃいけないし、お客さんからはピーピー冷やかされるし、真っ赤になって喋ることもできなかったんです。
 悩んでいたときに、友だちから勧められ、意を決してクラブシンガーのオーディションを受けたんです。そしたら、「今日から歌ってくれ」と。ところが、地元だから父にすぐばれてしまい、ものすごく叱られました。
 それでも、私は意を決して、「東京に行って歌手になりたい」と父に伝えたんです。「なんでそんなに頑固なんだ」と言われて「私、お父さんの子どもだから…」。そう言うと父は何にも言えなくなって1週間寝込んでしまいました。そのときの父の気持ちを思うと今でも涙が出てきちゃうの。でも、あの頑固さがあったからこそ、今の私があるんだと思います。
 父から勘当され、上京。それでも、不思議と不安はなくて「絶対に花開く!」という夢のほうが勝っていた。若さってステキですよね。歌える喫茶店で働いていたら、スカウトされて銀座のクラブで歌うことに。ついに夢が叶ったんです。
 クラブ時代は、サラリーマンの20倍ぐらいの収入があったし、もう蝶よ花よの女王様でした。人生の裏表を知り尽くしたホステスのお姉さんたちが、私の歌を聞きながら涙を流すの。私の歌は自己流だけど、そのときに、切ない女心とか歌心を学んだんです。
平成18年10月25日、35周年記念ディナーショーの模様

たくさんの人に支えられ生まれた大ヒット

 そんな私にとって大きな転機になったのが、レコードデビュー。クラブ時代、スカウトの話はたくさん来ていましたが、全部断っていたんです。でも、あるとき、レコード会社の重役さんが集まって「ぜひ専属になってほしい」と。断りきれず、「八代亜紀」でデビューすることに。
 ところが、デビューしてもまったく売れない。それから数年間は、キャンペーンで地方巡業の日々でした。そして22才のときに、「なみだ恋」が大ヒット。100万枚を超えたときは、本当にうれしかった!100万人以上の人たちが私を応援してくれた。人は1人では生きていけない、たくさんの人たちに支えられて生きているんだと、そのとき初めて気がついたんです。
 「八代亜紀の歌は、すごく悲しい歌だけど、そこにひとかけらの希望を感じる」とよく言われます。辛い境遇にいても、私の歌を聞くと、まだ自分は幸せなんだと感じると。「トラック野郎のマドンナ」として騒がれていたころも、運転中に私の歌が流れると、家族の顔が浮かんできて「パパ、頑張ってね」っていう声が聞こえてくる。そう言われました。
 私は、悲しい歌でも悲しいだけでは歌わない。そこに愛がないと伝わらないと思います。捨てられた悲しい女心の歌だけど、捨てたあなたも辛いでしょ?と。決して憎んでは歌わないから。
 その原点は、クラブ時代。歌い始めてもう何十年もたちますが、いつもあのころと同じひたむきな気持ちで歌っています。声は、年齢とともに変わってくるけど、歌い方は絶対崩さない。それが歌に対する哲学なんです。

夫婦で創作を楽しむ箱根の山荘

 15年ほど前、箱根にアトリエを兼ねた山荘を建て、絵の制作も本格的に始めました。人が集まって楽しい空間を作りたいと思い、自分で何十回もイメージの絵を書いて、設計にもものすごくこだわりました。暖炉に掘りごたつに囲炉裏があって、部屋の仕切りも扉もなくして、高低差だけで部屋を仕切っています。設計士さんも驚いてましたけど、家は一生のものですから、建築の概念にこだわらず、自分がこうしたいと思うように作るのが1番いいんじゃないかしら。
 今、絵の個展は年に5回ほどあるので、年間200点ほど描かなくてはいけないんです。ルネッサンス時代の手法で、乾いたら色を塗り重ねていく油絵だから、コンサートの合間に描くとちょうどいいんです。最後の仕上げが1番大変ですね。筆だこができて、肩もこるし。でも、箱根の自然の中で絵を描いていると気持ちも安らぎますね。

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平成19年11月熊本鶴屋デパート「八代亜紀絵画展」会場にて
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箱根のアトリエで絵画制作中
 山荘には窯があって、主人は陶芸を楽しんでいます。主人は、もともと私のマネージャーで、私が1番大変なときにそばでずっと支えてくれた人なんです。一時期、人間関係で傷付いて、ストレスで歌が歌えないほど辛い時期がありました。なかなか情が切れなくて悩んだ末に、すべてを清算して彼と結婚しました。だから、今、私がアーティストとして歌と絵に専念できるのも、彼のおかげだと感謝しています。

歌と絵のボランティアでご恩返し

 「なみだ恋」がヒットしてから、何か恩返しをしたいといろいろなボランティアを始めました。全国の少年院と女子刑務所も慰問公演で回りました。とくに女子刑務所は、8割が男にだまされた悲しい女性だそうです。「まさに八代さんが歌っている女心ですよ」と言われて…。老人ホームでは、みなさん身内に再会したように喜んでくださるの。その笑顔が、またうれしい。ボランティアをしていると逆に幸せをもらうんですよ。
 絵を買ってくださった方からもお手紙をいただくんですが、この間80才の女性から「八代さんが描いた猫の絵を居間に飾ったら、いつも怒っていたおじいちゃんが、絵を見てニコニコするようになった」って。きっと、私が描いた絵を家族のように思ってくれているんでしょうね。愛犬を亡くした方に、元気なときのワンちゃんの絵を描いてあげたら、ずっと生きてるみたいだと、すごく喜んでくださったり。
 私は、たとえば踏んづけられて折れた花を拾って写生したり、動物の絵を心をこめて描いているとき、その花や動物たちが、感謝してくれているような気がするの。それは人間も同じ。たくさんの人たちに喜んでもらえたということは、その方たちが私を支えてくださっているということ。
 だから、いつも元気で幸せで、歌も歌える。おかげ様で、この38年間コンサートのお客さまはいつも満員なんです。自分ができる範囲で人に喜んでもらい、それがまた自分に還ってくる。幸せって循環するんだなって思いますね。
(東京都目黒区の自宅にて取材)
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