建築家・マインツ工科大学建築学科教授
(かわむら かずひさ)
  河村 和久さん
1949年福岡県生まれ。東京藝術大学建築科卒業後渡独。ア−ヘン工科大学工学部建築学科卒業。ケルンにて自営。ライネフェルデ日本庭園など日独交流プロジェクトに参加

はじめに
 ケルン郊外、大都市近郊のどこにでもある住宅地に、少々場違いな古い建物群がある。ケルン大聖堂から4キロと離れてないここも、第二次大戦後までは農地で、建物は、800年近く続いた農場の管理人住居と小作人住居、家畜小屋、納屋などの農舎であった。戦後、州の建築文化財となり、今は住民16世帯の維持管理する「集合住宅」である。その所有者、住人としてこの建物のたどった歴史と現在について報告してみたい。

『農家』としての歴史
 ケルンの古い修道院に、この農場が12世紀半ばに寄進されたという記録がある。1760年ごろまでには、現在見られる形の建物群ができていた。1910年に市の所有となり、63ヘクタールの農地が賃貸で経営されることとなる。農舎には豚や牛が飼われ、中庭には堆肥が積まれ、たまった糞尿とともに馬車で農地へ運ばれる。夕方教会の鐘とともに小作人たちはここに戻り家族との団らんを楽しむ。20世紀初頭、ここの村がケルン市に合併され、工業化の波が迫って来たときも、ここでの生活は、おそらく2、300年前と大して変わらなかったはずだ。
 変化は第二次大戦後に来た。中庭を囲んだ管理人棟や農舎群は幸い大きな戦災をまぬがれたが、地主のケルン市が農地を次々と工場労働者用住宅に転用していった。その結果1960年に時の借地人が最後の農民としてこの地を去り、建物群はその本来の使命を終えた。
入り口の門。車を入れるときは全体を開き、普段は、小さなドアを利用する。右が『管理人棟』でその前のレンガ壁の向こうが『子どもの遊び場』、左の建物が『小作人の住居』部分で我が家の区画がある。さらに左の緑地に駐車場が見える。
去年の鯉のぼりパーティー。門のすぐ右が我が家で、『テラス』は鉢植えの草木に隠れた部分。

『集合住宅』になるまでのいきさつ
 市当局は取り壊しを推進するが、建築文化財局は保存を主張。教会や地区の市民団体は改修して利用する計画を申請する。市が経済性を理由に倉庫や作業場として使い始めたころから子どもらの投石の的となり屋根瓦やガラス窓が破壊されていった。市民組織は再度、住宅開発で増えつつある青少年のための施設案を提出するが、市は予算の欠如を理由に申請を却下し、取り壊しの方針を決定する。業を煮やした市民組織は1976年、ほとんど廃墟と化したこの建物群を占拠し、自力でクラブハウスへの改修を始めた。市は、入り口や窓をレンガでふさぎ「立ち入り禁止」とした。その後1年ほど、市と建築文化財局と市民団体の間で堂堂巡りの議論が繰り返されたが、ある建設業者が、「分譲住宅として改修したい」と申し出て、これが解決の糸口となる。市は「私有化」には反対で、地元も最後に残った自分たちのアイデンティティーの拠り所を失うことを恐れ、しばらくくすぶっていたが、「近郊の町で、同じようなプロジェクトを成功させた」建築家のチームが建築文化財局の後押しで現れ、市も市民団体も手を打つべきときだと考えたようだ。
 1978年、市議会は、前記の建築家を代表者とする所有者組合に永代借地権のもとで建物群を払い下げることを決議、地主は今まで通りケルン市、建物所有者は年々借地料を払うこととなった。プロジェクトは順調に進み、80年代初めにこの農家は集合住宅に再生された。

再生された建物と、そこでの生活
 建物は外壁を残してすべてリニューアルされた。屋根も、勾配や屋根窓など、すべて前と同じ形で作り直され、床はRC造、壁はコンクリートブロックで積まれた。仮に、投石による被害がなかったとしても、かつてとは全く違う用途に対応し、現在の設備やエネルギーシステムに対応するには、これは当然だった。納屋への入り口だった大きな開口部を、吹き抜けの居間の窓にしたり、以前倉庫部分で窓のなかった壁には、なるべく窓をつけなくていい間取りにするなど、苦心の跡がある。
 共同利用の中庭を囲む16世帯の生活は一種独特なものだ。所有形態としては借地料を払う以外は「分譲マンション」だが、外部空間―アプローチ、前庭、テラス、スポーツやレクレーションのための庭―をすべての住人が共同利用するからだ。入り口の大きな門をくぐり、奥行き37メートル幅約22メートルの中庭に入る。「管理人棟」に住む5世帯は共同の入り口ホールから中庭にアプローチするが、ほかの11戸へはこの中庭から直接出入りする。12の入り口が石畳の中庭に面しているが、各住居の入り口付近は、暗黙の了解で、それぞれのテリトリーとみなされ、テーブルと椅子を置いてリビングやダイニングの延長、つまりプライベートテラスとして使っている。各自の「テラス」付近の「前庭」は各自が手入れし、バラなどの栽培を競い合う。しかし、土があるのは壁の前1メートル半ほどなので、各戸は「私のテラス」の領域を示すために鉢植えを置くこととなる。隣り合うテラス同士のプライバシーや「私のテラス」の前を他人が通って行くという問題はエチケットで解決されている。例えば、私の住居はゲートを入ってすぐで、「テラス」は門を出入りする人々の視線にさらされる。出入りする住人や訪問者は、私たち家族が食事をしていると、こちらと顔を合わせて「グーテンアペティート!(おいしく食べてください)」と言って前を通り過ぎる。こちらから声をかけ、立ち止まって話しても、食事にはあからさまな視線を注いだりしない。隣の「テラス」とは話が聞ける距離だし、間に置いた鉢植えの草木も、何を食べているか見える頼りないスクリーンだが、それで良い。お互い「無視」の信号を送り、それぞれの世界を閉じることもできるし、たまには目を合わせて「乾杯!」、「こっちで一緒に飲まないか?」ということにもなる。
『管理人棟』への入り口から見た中庭。井戸の右向こうに散水用の施設、壁際に各世帯の『テラス』ゾーンが見て取れる。
『トンネル』で中庭につながる芝生の庭。左側、『管理人棟』の裏が『子どもの遊び場』になっている。偏西風で雨水の当たりが強い西壁は漆喰の仕上げ。
 小さな子どもたちにとってこの中庭は大家族に囲まれた安全で楽しい遊び場だ。大人のガーデニングを手伝ったり、ほかのテラスの子どもを訪ねて一緒に遊んだり、自転車に乗る練習をしたり、食事を待ちながらバドミントンや縄跳びをしたり…。時には、周りの「観客」も引き込まれてしまう。12月には中央に大きなクリスマスツリーを飾り、私たちが入居してから、5月にはそこに鯉のぼりを立てている。

緑に囲まれた外部空間の維持管理
 この中庭にある8メートルを越える2本の木は専門の業者が手入れをするが、そのほかすべての草木は、どれかの世帯への所属がはっきりしており、持ち主がバケーションなどで2、3週間留守にするときは、必ず誰かに水遣りを頼んで出かける。中庭の下には、農家時代からの地下水槽があり、溜まった雨水をホースでまけるようになっている。
 西側の棟の1階にトンネルが開いていて、中庭は約1000平米の農家時代の果樹園につながっている。そこは芝生で、古いりんごとプラムの木が数本残り、隣地との境界あたりの結構大きな木とともに、夏の暑い日でもひんやりとした木陰を作っている。この庭では、サッカーなど、中庭では禁止されているスポーツをしたり、暑い日には子どもたちがテントを張って寝たりする。この一角に、バーべキューをやる場所があり、ガーデンパーティーなどに使いたいときは、門の近くにある掲示板に、日時を書いて予約しておく。ただ、子どもの誕生パーティーを週末にやりたいときなど、早めにおさえておかないと、誰かに先を越されてしまうことがある。しかし、予約さえすれば「私だけの庭」になるのだ。昨年のワールドカップのとき、日本語補習校の子どもたちや父兄約50人とクロアチア戦をここで観戦し、子どもたちは歓声を上げつつ勝手に遊び、親どもはバーベキューとビールで盛り上がった。このときは例の掲示板に「うるさくなるが、8時には終了する」の一文を加えた。この庭からさらに「管理人棟」の裏手にまわると、ブランコなどの遊具のある「子どもの遊び場」へと続く。ここの大きな木や道路沿いにある駐車場の生垣の手入れは専門業者に頼み、芝刈りや掃除は管理人に任せている。
 もちろんお金を払うのだが、これだけ広いオープンスペースを「自分のモノ」と感じつつ使え、好きなときに土いじりのできる土地もあるという環境は、私たち共稼ぎの子育て夫婦には理想的だった。今はその子どもも大きくなり、ここにも高齢化社会が近付いている。しかしこの住居形態には、それにもうまく対応できそうなポテンシャルを感じる。この特殊な住居形態は偶然できた。しかし、土地や緑を「共有」し、しかも同時に「私用」できるこの形態は、都市内の限られた空間を有効に使い、いろいろな意味で豊かな生活の基盤となる1つの具体的な可能性であるように感じる。ほとんどが公有地の上に建つ日本での団地再生の際にも一考に値するのではないだろうか。


団地再生研究会URL
www.danchisaisei.com
団地再生産業協議会
www.danchisaisei.org
団地再生まちづくり
建て替えずによみがえる団地・マンション・コミュニティ
編・著/ NPO団地再生研究会
合人社計画研究所
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