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「生命だけは平等だ」の理念のもと、日本全国に170余の病院施設を展開。 日本の医療界に鮮烈な光彩を放ちながら、徳洲会という世界有数の医療体制を総帥する徳田虎雄。 政治家としても自由連合代表や衆議院議員をつとめるなど、常に注目の存在。 奄美諸島の徳之島で生まれ育った風雲児徳田の「捨て身の人生」の実像に迫る。 |
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![]() 徳田 虎雄 (とくだ とらお) |
昭和13年2月17日生まれ、徳之島に育つ。医師を志して、16歳のとき徳之島高校から大阪の今宮高校に編入、苦学の末大阪大学医学部に合格。卒業後、公立病院に勤務。 昭和48年、年中無休、24時間オープン、患者からの贈り物は受け取らない病院として大阪府松原市に徳田病院を開設。その後、医療法人「徳洲会」を設立、各地域住民の求めに応じて、続々と大病院を建て、昭和61年には、念願を果たして徳之島にも360床の病院を作った。 現在までに、グループ病院を含めて全国に170余の病院施設(職員約1万5千人)を擁する。「生命だけは平等だ」の哲学で、ふるさと奄美群島や、医療不足に悩む全国各地に病院開設を進める中、医師会などの政治的な圧力によって病院開設が影響をうけるにおよび、また世界に運動を広げるために政治にかかわることを決意した。平成2年3度目の挑戦で鹿児島県奄美群島区から衆議院議員選挙に初当選し、第二次村山内閣では沖縄開発政務次官を務める。現在、3期目。衆議院議員。自由連合代表。特定医療法人「徳洲会」理事長。著書に『生命だけは平等だ』『ゼロからの出発』『頭の悪いやつが成功する』『母の力』などがある。 |
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| ―徳洲会の「徳洲」というのは鹿児島県奄美諸島の「徳之島」のことです。 徳田さんの行動を見ていますと、その原点はこの徳之島での生い立ちにあるということですね― |
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| 医学以外の必要なことは、すべて故郷の徳之島が教えてくれました。私にとって徳之島は特別な意味を持っています。 太平洋戦争、アメリカの占領・統治時代、返還後今日に至るまで、いつも私は厳しく、美しいあの島の自然と人情の中に生きてきたように思います。 どんなに苦しくとも、どんなつらい、大きな困難があっても、なぜか目を閉じて故郷の島の情景を想い浮かべるだけで元気が出て心が落ち着いてくるのです。 |
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| ―徳田さんが幼いころの徳之島はどんな状況だったのですか― |
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| 終戦時(1945年)、僕は、小学校2年生の夏でした。奄美諸島はその後ずっとアメリカの占領・支配が続く日本本土にとっては、「外国」になったのです。 外国ですから内地(日本本土)と自由に行ったり来たりできない。ビザがいるのです。もっとも、島の人は密航で内地の親戚を訪ねたりしていました。 島(徳之島)は当時で人口4万5千人、現在は人口3万5千人くらいですから、さとうきびを主にした芋と米などの農業と、つむぎの生産くらいであとは自給する程度の漁業が少し。 ハブは有名ですが産業にはならない。もっとも私はときどき医師会の人に「奄美のハブ」といわれているようです。(笑) |
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| ―徳田さんはお母様から特に大きな影響を受けられ、『母の力』という本まで出しておられます― | ||
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| 僕は、幼いころから母が働いていない姿や眠っているところを見たことがないのです。ほとんど休まず、夕暮れまで働き、日が暮れかかると家に帰って豚に餌をやり、夕食の後片づけを終えると、洗濯や縫い物は夜にするのです。そして朝は5時に起きて、働き出すという生活を1年中大体同じように守っていました。 僕は大阪で、阪大医学部をめざして一人受験勉強していたときも、気がゆるみそうになると、母の姿を思い出していました。 母はまた、僕を医者にできないかと誘導していたようにも思えます。と申しますのは、母と芋掘りや畑の草取りなんかのときに話をしました。そのときなどなぜか、医者の話がよく出たんです。誰がどうして医者になったとか、医者の出世話になってる。 恋人の男が医者になるまでさんざん尽くした女の人がいて、男が医者になったとたんに捨てられて自殺した話など。男はそんなことはしてはいけないなど教訓もあるのです。 母は努力と忍耐と節約の天才でした。母は僕のがんばりのライバルでもあった。 母は子どもが怠けても何もいいません。あくまで優しく、子どもが文句をいえないほど、ただ働きに働いていたのです。そういう母は僕に今でも影響を与えつづけています。「今なすべきことを全力でしなさい。」といっていたのでしょう。 |
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| ―お父様はどういう方でしたか― | ||
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| 父は明治38年生まれです。ヤマトンチュ(島外の内地の人)の継母との折り合いが悪く、小学校の途中から家を飛び出しました。関西で働いていたりしたので教育が受けられなかったのです。 しかし父は、勝負師といっていい思いきりのいい人でした。生か死というギリギリの覚悟で僕が勉強したのも、この父の激しさをもらったからです。男親として、男の生き方、気概を僕にたたきこんでくれたのです。 ある時期、父は、アメリカ軍の軍政下、村で余剰となった禁制品の砂糖の密輸をします。島の砂糖を本土で売り、代金で奄美の豚を買い、この豚を島の人は求めていたのです。 砂糖の売却も豚の購入もすべて島にとっては必要なことですから、この交易は島民には喜ばれ、一時うまく行くのですが、密告する人もいたりして、父は刑務所に入った時期がありました。 主人を失った農家の家族には、苛酷な労働がかかってきます。父の留守中に僕は小学校3年生でしたが3歳の弟を病気で失います。 |
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| ―徳田さんの生まれ育った村では、「病気をすることがいちばんこわい」ことで、徳田さんも弟さんを亡くされて、医者となる決意をされています。当時、島の医療事情はどんなものでしたか― |
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最悪でした。お産しても、命を落とす女の人も多かったのです。ハブの毒で亡くなる人もいました。 医者も島に2人開業していましたが、島の人は病気しても通院することはあまりなかった。動けなくなって、いよいよどうにもならなくなって往診を受けることになるのです。 悪いことは重なるのでしょうか、父が刑務所に入っていたとき、当時3歳の弟が夜中の3時ごろ急に容体が悪くなりました。母は妊娠中で大きなおなかをしていました。母は僕を起こして医者を呼んで来るようにいいました。 まだ小学3年生ですから、医者のいる村まで夜道を行くのは怖かった。僕は行くのがいやで、何とか行かないですむ理由を見つけようと弟を見に行きました。すると弟は白い眼をむいて意識がなかった。 夢中で家を飛び出して、真っ暗な山道をころびながら一心に走りました。 やっと医者の玄関にたどりついて、必死で頼んだけれど、その医者はなぜか往診に来てくれませんでした。いくら頼んでもだめでした。 |
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僕は山道を泣きながら帰って行きました。弟の容体はひどくなっていました。 朝になってまた別の医者のところへ駆けていきました。その医者は容体を尋ねました。「白眼をむいています。」といいました。その医者は昼過ぎ午後1時半ごろやっと来ました。弟はすでに息絶えていました。 仮に医者が来ても弟は助からなかったかもしれない。しかし僕にとって、医者に診せてやらずに弟を死なせてしまったことが、口惜しくて、どうしても諦めきれなかった。 取り返しのつかない弟の死は少年の僕の心に強烈な衝撃を与え、今でもゆさぶり続けています。 「医者になりたい。医者にならなければいけない」とはっきり思ったのはこのときです。もちろんここで医者といっているのは本当の医者と言う意味で、人が死にかけているのに、往診もできない、ただ免許を持っただけの、偽りの医者のことを言っているのではありません。 その後大阪大学医学部という難関に挑むわけですが、不安な勉強中も私を支えているのはこの弟の死でした。 大学を卒業して、医療の世界の実情を知るにつけ、今度は「病院をつくりたい、真の病院を」と思うようになりました。 病人のことより自分の都合を優先する医者は徳之島だけでなく、全国にいました。例えば、救急患者のたらい廻しは日常茶飯事だったのです。 「本当の医者が集まる病める人のための病院をつくろう。」と仲間に呼びかけました。その第1号が大阪府松原にある徳田病院です。ここでは、24時間年中無休としました。 |
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| ―多くの日本の病院などで見られることですが、治療費とは別に手術の際に執刀医に数万円、場合によっては10万単位の現金を包むという現実があります。医者が要求するわけでもないのですが、患者がお礼として差し出せば、返却する医者はまだ少ないようです。徳洲会ではこのような問題についてどのように対処していますか― | ||
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| 徳洲会では、手術であろうが検査であろうが患者さんから決まった医療費以外に、お金はおろか、菓子折り1つもいただきません。これははっきりしています。 考えてもみて下さい。病気のとき人はただでさえ苦しいのです。医者は他人に命を託され治療させてもらえるだけで有難いと思わなければなりません。病気のとき痛い、苦しい、不安というだけでなく、仕事は休まなくてはならないし、治療費の負担分など経済的にもたいへんです。 人は医者の生活向上のために病気になるわけではありません。この事を理解できない医者も病院職員も日本に1人もいないはずです。 このような事情がわかっているのに、さらに平気で患者に負担をかける者の神経を疑います。 私はこの問題で正義漢ぶったり、日本中の多くの医者や病院関係者を貶めようとしているわけではありません。本質的な問題だから譲れないのです。 よく考えてください。医者は病人の為に存在しているのであってその逆ではありません。医者に限らず医療従事者の生きがいやプライドはその1点にあるのです。このことを忘れた時、医者が医者では無くなり、看護婦が看護婦で無くなるのです。 このことを忘れないために徳洲会では患者から金品を受けとることはしません。今後とも、おそらく私の亡きあともこのことは変わることはないでしょう。 |
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| 昭和18年8月22日生まれ、京都大学工学部卒業、同大学院修士課程修了(環境工学)。関西電力建設部技師、広島工業大学助教授を経て、現在株式会社合人社計画研究所代表取締役。合人社グループ代表。土木学会・日本建築学会会員。著書/「環境アセスメントの実施手法」(共著、日刊工業新聞社)、「地域農業と資源を考える」(日本農業新聞連載)ほか。 |
![]() ウェンディ総編集長 発行人 福井 滋 (ふくい しげる) |
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